田町のおこり
田町は、萩市の市街地のほぼ中央にあり、いろいろな商店がたちならんでします。田町の東側を東田町、西側を西田町とよんでいます。「町へ買い物に行く」といえば、田町にでかえるという意味で使われていた時期もありました。
では、いつごろから田町という名がつけられ、商店がたちならぶようになってのでしょうか。
西暦1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こりました。このとき、東軍の総大将が徳川家康、西軍の総大将が毛利輝元でした。天下分け目の戦いは、東軍が勝ち、徳川家康は江戸(今の東京)で幕府をひらきました。いっぽう、敗れた毛利輝元は、中国地方八か国120万石から、周防・長門の二か国(今の山口県)36万石に領地をへらされました。
そこで、輝元は、長門・周防の中心となる城下町として萩をえらび、萩に城をきずくことになりました。城づくりは、1604年(慶長9年)からはじまり、4年後の1608年(慶長13年)に完成しました。城づくりとあわせて、城下町の町づくりもおこなわれました。
このころ、田町は見渡すかぎりの田んぼでした。輝元は町づくりにあたって、田んぼをうめたて町屋敷をたて、商人たちを住まわせました。こうして、今からおよそ400年前の江戸時代のはじめに、田町は現在のように商店のたちならぶ町なみができあがったのです。田町の地名は、田んぼであったところに町ができたので、田町と名づけられ、それが東と西に分かれ、東田町と西田町になったといわれています。
ついで、1687年(貞享4年)には、田町の南側に、萩の城下町を東西に横切る、新堀川がほられました。新堀川は洪水のさいの水はけをよくするためと、川舟によって荷物を運ぶためにほられた水路です。とくに、田町の商人にとっては、川舟によって商品を運ぶのに大いに役だったことでしょう。新堀川のそばの通りは、のちに田町の南側にあたるということで、南田町ともよばれました。
ところで、萩の城下町のそれぞれの町には、町人たちが洪水や火災のさい、出動するときにもっていく「町のぼり」がありました。東田町の「町のぼり」は、赤色の丸の中に、東田町と書かれています。いっぽう、西田町の「町のぼり」は、貝がえがかれています。これはニシという貝で、西田町の「西(にし)」から「ニシ」を連想して、町のしるしとしたものと思われます。
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